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自己紹介

はじめまして、えみこです。

当サイトにお越しいただき、ありがとうございます。

私は現在、冬になると2~3メートルの雪が積もる世界有数の豪雪地(新潟県)に住んでいます。

元々は千葉県の出身ですが、約10年前に新潟県に移住してきました。

隣の家までは約120メートル。車の音や人の声はほとんど聞こえません。人間より動物の足跡のほうが多いくらい。そんないわゆる「ど田舎」で夫と生後6ヶ月の男の子、5歳の男の子と暮らしています。

  • 玄関を出て1秒で自然と触れ合える環境
  • 半自給自足できる暮らし
  • お互い様で助け合えるご近所さんとのつながり

田舎暮らしで得られる豊かさはたくさんあります。

私自身移住当初は「田舎でゆっくり暮らすの最高!」と思っていました。

でも現実は違ったんです。

「田舎=スローライフ」は幻想だったことを知り、今の収入と働き方では子どもにやりたいことをさせてあげられないという現実にぶち当たりました。

現在私は1年後に月収30万円達成を目指して、在宅ワークを始めたところです。

今回はなぜ私がその目標を目指すに至ったのか、その経緯をお話します。

優等生がコンプレックスだった子ども時代

私は千葉県の中でも東京寄りの、アクセスの良い便利な地域で生まれ育ちました。

ごく普通のサラリーマンの父、パートで働く母、姉、弟、祖父母の7人家族で、家に帰れば誰かしらいる温かい家庭だったと思います。

こう見ると何の変哲もない家庭なのですが、私自身は一種の寂しさを抱えていました。

それは「兄弟の真ん中ゆえに、構ってもらえない」こと。

姉は長女なので、両親も全てが初めての経験。手をかけるのは当たり前です。

弟は初めての男の子であり末っ子なので、可愛がってもらえる。

私はというと…

  • しっかりしてる
  • 手がかからない

と言われることが多く、大人の目を向けてもらえない寂しさを感じながらも、甘えられず我慢することが染み付いていました。

また学校に通うようになって衝撃的だった出来事があります。

授業中に先生から課題が出て、終わった人から見せに行くというシーンがありました。

当然私は、言われた通りに課題に取り組み、見せに行こうと席を立って教壇へ向かいました。そのとき……

いつも先生の話を聞いていない子が「先生できないよ〜」と、私の前に割り込んできたのです。

私は「えっ」と少し後ろにのけ反りました。

そのとき先生は、言われた通り課題に取り組み並んでいた私ではなく、話も聞かず、課題にも取り組まず、割り込みしてきたその子と話を始めました。

その後のことは正直よく覚えていませんが、この瞬間の気持ちは30年近く経った今でも鮮明に覚えています。

「大人の言う通りにいい子にしていても、結局見てもらえないんだ」

子どもながらに大人に期待することへの諦めを感じた瞬間でした。

だからと言って、グレることもできず、結局は中学卒業まで「優等生」だった私。

家でも学校でも「しっかりしていて、手のかからない子」と言うレッテルが染み付いていました。

「私には無理」やりたいことを諦めた10代

「優等生」として何でも卒なくこなしてきた私ですが、幼少期からずっと好きだったことがあります。

それは絵を描くこと。

暇さえあれば自由画帳に絵を描いたり、授業中にはノートの隅に漫画を描いている子どもでした。

絵を描いている時間は他のことを考えずに夢中になれたし、人に合わせなくても一人で楽しめる時間がすごく好きでした。

中学生になり部活を選ぶとき、本当は美術部に入りたかったのですが「美術部=オタク」というイメージがあり、そう見られたくなくて女子に人気だったテニス部に入りました。

その後も進路を考えるにあたり「絵を描く」ということが頭の隅にありつつも「漫画家やイラストレーターは狭き門、私には無理だ」と調べる前に諦めている自分がいました。

結局、高校も短大も自分が受かりそうなレベルの学校を選んで、推薦で合格。

常に失敗を避け、周りからの目を気にして安定の道を進む10代でした。

26歳、初めての冒険に出る

結局周りからの勧めもあり、好きな絵を描くことも活かせると自分を納得させて、保育・幼児教育系の短大に進みました。卒業後は都内の保育園で働き、毎日がむしゃらに子どもたちと向き合っていました。

元々保育士を目指していたわけではありませんでしたが、言語化できない子どもたちの思いを汲み取り、その可能性を伸ばしていく保育の仕事はとてもやりがいがある仕事でした。

同時に都会で保育することに限界を感じ、もっと自然の中で保育をしたいと思うようになりました。

当時働いていた園でも自然を取り入れた保育を試みましたが、自分自身も都会育ちであることや周辺環境の限界を感じ、一度しっかり「自然保育」や「アウトドア」について学びたいと思うようになっていました。

そうして検索するうちに出会ったのが、新潟県にあるアウトドアの専門学校でした。説明会に参加して約1ヶ月で入学を決意し、引っ越しをしました。

26歳のときです。

今まで安定思考だった私が、職を手放して初めての冒険に出たのです。

固定概念を覆す、雪国の暮らしとの出会い

初めて出た冒険の行き先は、世界有数の豪雪地。自然保育に関する勉強はもとより新しい環境で出会うものは、全てが新鮮で魅力的でした。

毎日のように移り変わる自然の景色、好きなことに向き合う専門学校の同期や先輩、先生たち。やりたいことを仕事にし、個人で事業されている方も多くとても刺激的でした。

元々「好きなことを仕事になんてできない」と諦めてきた私にとって、固定概念が次々と外れていく感覚だったのです。

当初は「自然保育」を学ぶつもりで引っ越したのですが、結果的に田舎での暮らしが気に入ってしまい、卒業後も新潟県内に残る道を選びました。

その後は地域づくりに携わる仕事に就いたことで、地方の過疎化の問題に触れ、同時に私が見て感じてきた田舎の魅力をもっと伝えたいと考えるようになりました。

だんだんとやりたいことをイメージできるようになり、あとは実行して形にするだけでした。

以前の自分だったら、ここで諦めていただろうと思いますが、環境を変えたことで「やってみよう」という気持ちになれたのです。

そしてゲストハウス開業に向けて走り始めました。

安定思考、内向的な私がまさかの起業

それまで前に出るタイプではなかった私。起業を決意し、ブログやSNSで自分の思いを発信したり、先駆者に会いに行ってリサーチをしたり、自ら手と足を動かして作っていく過程はただがむしゃらでとても充実していました。

立ち上げにはクラウドファンディングに挑戦。目標金額の100万円を超え、140万円の支援金を集めることに成功。

無事にオープンでき、同時期に始めたライターの仕事と掛け合わせてなんとか生計を立てていました。

自分の思いを発信することで、同じ価値観を持った人たちが集まってくれたり、やりたい仕事の依頼をいただけたりと、裕福ではありませんでしたが楽しくて充実した日々でした。

長男の成長とコロナ蔓延で挫折

その後しばらくして入籍、長男出産とライフイベントが続きました。

夫とは新婚当初からお互いが好きなことをするため円満別居をしていたので、生活自体の変化はあまりありませんでした。

転機が訪れたのは息子の成長とコロナの蔓延。

息子が大きくなってきて父親を認識するようになってからは「息子の成長を側で見せてあげたい、このままずっと一緒に住まなくても後悔しないか?」と思うようになりました。

同時にコロナの蔓延でゲストハウスの営業は下火。

子どもが生まれ、夫婦二人のときと比べてお金が必要にもなっていたこともあり、収入に対して徐々に不安を抱えるようにもなっていました。

「このままではいけない」

夫との同居を決意し、引っ越すことに。

同時にゲストハウスは閉じ、ライター業もストップ。安定を求めてパートタイムの非正規雇用として就職しました。

安定ってなんだろう?愚痴ばかりの日々

でも、働いてみたら全然安定なんかじゃなかったのです。

  • いくら頑張って成果を出しても時給は上がらない
  • 年度雇用なので、来年も働ける保証はない
  • 時間外労働や土日祝出勤も多く、子どもとの時間が減ってしまう
  • 産休育休や時短の制度がない
  • 同僚のモチベーションが低く、仕事が楽しくない

ストレスは溜まる一方でした。

仕事が忙しいことで、好きだった田舎暮らしさえ楽しめなくなり、都会にいたときと同じような生活。

「私なんで田舎に住んでいるんだろう?」

ここにいる意味がわからなくなりました。

せっかく一緒に住み始めたのに、夫には愚痴や八つ当たりばかり。ギスギスする夫婦関係も限界を迎えていました。

このままではいけないと思い、2年勤めた仕事は辞める決意をしました。

自営業の現実とWebマーケティングとの出会い

仕事を辞めて、じゃあ何する?もう一度やりたいことを考え直しました。

本当は以前やっていたゲストハウスを新しい形でやってみたい。その構想もありました。

でも現状、小さな子どもを2人抱えて自分がリアルで何かを作り出すことは難しい。かといってチーム化するほどの経験も資金もありませんでした。

何が作るなら元手が必要…もう行き当たりばったりではできない…。

そんなときに出会ったのが「在宅ワーク」でした。

元々ライター経験があったので、ライターとして在宅ワークができればいいなと思いましたが当時受けていたのは単発案件と少額の委託案件のみ。

いくつかのメディアに応募したこともありましたが「自分で案件を取ってこれないと契約はできない」と言われてしまいました。

ただの下請けライターでは、収入アップにはつながらない現実にぶつかったのです。

ゲストハウスを開業するにしても、ライターとして収入を上げていくにも、自分自身で売り込んでいくことができなければ理想の未来は得られないことを痛感しました。

そして「在宅ワーク」について調べていく中で出会った「Webマーケティング」がまさに今の自分に必要なことだと気付いたのです。

自分も子どもも、やりたいことに挑戦できる未来を作りたい

もともと安定思考だった私は、ふとした瞬間に「やっぱり現状維持でいいや」と思うことがあります。

現在は次男がまだ生後6ヶ月ということもあり、子どもとの時間を削ったり、睡眠を削ってまで成長しなくてもいいかなと思ってしまうのです。

それでもまた挑戦したいと思う背景には、一度ゲストハウスを開くという挑戦をしたときの「楽しさ」が忘れられないからです。

本当にやりたいことを形にして、思いを伝え続ければ、価値観の会う人や仕事が集まる。その経験がやっぱり忘れられないのです。

そしてその楽しさを子どもにも伝えていきたい。

私は田舎で子どもを産んだとき、周りのママから言われて衝撃だったことがあります。

「この地域で子育てするならパートじゃないと無理だよ」

フルタイムで働けるのは祖父母が近くにいる人。移住して親族が近くにいない人はパートくらいしかできないという意味です。

田舎だから保育サービスも少ない、園や学校の選択肢も限られます。

基本的に車で移動しないとどこにも行けないので、子ども同士で遊ぶにも親の送迎が必要です。

できないことを数えたらキリがありません。

「田舎だから…」と諦めるしかないのでしょうか。

 

私が起業できたように、本当にやりたいことがあって行動すれば、どこにいたってチャレンジはできるはずです。

子どもには、以前の私のように環境のせいにして、愚痴ばかり言う人にはなってほしくありません。

だからこそ、親の私がやりたいことにチャレンジし続けて田舎での暮らしを楽しむ。

その背中を見せることで、子どもたちがここで生きることに誇りを持ち、好きなことにチャレンジしていける土壌を作っていきたい。

それが私の原動力です。